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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qを観てきた。

TV版の完全なるグレードアップだった序。

新キャラ新敵新展開で激アツのラストを見せた破。

でもって今回のQはというと、かつての劇場版のリイマジネーションか?って感じだった。

しょっぱなから主人公碇シンジと一緒になって置いてけぼりを喰らいまくり、

なんだかよくわからない陰謀によくわからないまま加担させられて、よくわからないまま世界を再び終わらせそうになる話。とでも言っとくべきなのか?

とにかくQの名に恥じない急展開の連続だったことは間違いない。

絵は物凄く綺麗だったことと、なんかよくわからんが世界は終わらなかったってことぐらいしか覚えていない。

あーっと思ってる間に終わってしまった。

なにを言ってるのかわからんと思うが、実際に見たことを書くとさらに意味がわからなくなるので書かない。

でもまあ破ぐらいのときから、なんとなく思っていたんだが、主人公碇シンジは劇場版が開始する度に、前回の熱い心やら決意やらなんやらといったものを忘れて鬱々とし始めるのである。

十四歳の少年に圧倒的なプレッシャーを与え続けているようにも見えなくもない。

とにかく一度は自分の街を守ろうと決意して、その力で街を守ってみせたものの、次の『破』ではあっさりと人はそんな簡単には変われませんよってな感じで元に戻り、

そんでもって死ぬ気で本気で熱血主人公的に叫んで喚いて女の子をひとり救ったかと思いきや、

『Q』でそのすべてが否定され粉砕され、それどころか最早これまでの全てが嘘だったかのように、世界は絶滅する一歩手前にまで追い込まれてしまっている。

今回の碇シンジは唯一観客と同じ立場の人間なんだけど、そのくせ大して能動的に動いてくれない。というか何が起こったのか知ったり理解したりすることを恐れているので、モヤモヤした気持ちだけがいっぱい残る。

で、もう藁にもすがるような気持ちで小さな希望にすがりつくのだが、運命は変えられないとばかりにどこかで見たようなトラウマ的な光景を目の当たりにしつつ、絶望していく。

で、この物語は本当に終わるんだろうか?

ちなみに劇場版には毎回英題がつけられてるんだが、序がyou are (not) alon.貴方は一人(ではない)。破がyou can (not) advanceで貴方は進化(不)可能。Qがyou can (not) redo.貴方は再起(不)可能。となる。

そんなわけで、だんだんポジティヴじゃなくなっていってることだけはわかる。っていうかある意味では二律背反とも取れる書き方をしてる。

元々の予定ではただのTV版の再構築みたいな感じだったのに、もはやなにもかもをぶっ飛ばした作品になってしまっている。

もう完全に予測不可能である。わけがわかりません。

エヴァという作品の何がすごいかっていうと、あんだけわやくちゃにしとるのに、商業的に成功してみせるところである。

あれは何か、日本人的な、退廃的なものを見たいという好奇心を巧みに操っているんだろうか?

恐ろしくしっかりと練られたごくごく少数のキャラクター達。ヒロインはツンデレ、神秘にお姉さんとよりどりみどり、で、主人公は精神的に根暗。

こういう世界観がばっちり受け入れられる現状はちょっとヤバイんじゃないかなとか思ってしまうんだが、どうなんだろう。

いつも不思議なんだが庵野秀明という人はなんでまたこうも主人公に対して閉塞感を与えたがるんだろうか。

庵野秀明という監督は、庵野ウルトラマン、ナウシカの巨神兵、エヴァと非人間的なもののデザインと演出に関しては圧倒的な技術を持っている。

人でないものを描くのは凄くうまいのだけれど、肝心の人がどこかおかしい。

綾波レイの存在にしたって人かっていうとちょっと違うような気もする。ちなみに綾波レイの独白は精神を病んでる方々の詩からインスパイアされてたりするとか。

でもある意味ではエヴァの登場人物はこれまでにない方法論でつくられたキャラクターとも言える。

キャラクター全員が何らかの形でトラウマを抱えているという、物語になんのポジティヴさも与えてくれないような設定とか、まったく自分から行動しようとしない主人公とか、これで物語が動かせてるのが不思議なぐらいである。

でもまあ、その理由はやっぱり非人間的なすべてにあって、意味不明に襲いかかってくる使徒とか、エヴァとかが何もしたくない主人公を否応なく巻き込んでいくのは、社会のあれこれに否応なく巻き込まれていく人々とリンクしてるのかもしれない。

平和で安全で安息なまま暮らしたいのに、理不尽が押し寄せてきて自分を攫っていく。

その図式はどことなく現代社会っぽい。個人的には物語の終わりではそれに対してなんらかの回答が必要だと思ってる。

エヴァに関して言うならTV版は正当化エンドで、劇場版はバッドエンド。

じゃあ今回は?

来年が楽しみです。
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唐突だけど福満しげゆきは天才だとおれは思う。

『僕の小規模な生活』は漫画家を目指している僕(作者自身)とその妻の普段の生活を描いたもので、

一応フィクションと銘打ってはいるものの、本当っぽいところがいっぱいある。

ちょっと私小説チックで、己の小物さをちらつかせつつ、日常をつづっている。

といっても漫画でもすぐにネタが尽きたという話になって、編集者との打ち合わせとか、漫画家のパーティへ参加したとかいう話に持っていくので、本当にネタがないようなあるような状態である。

でもその中に、読んでてまったく飽きさせない独特の世界が広がっている。

それから構図も秀逸で、まだ漫画家デビューしてなくて嫁に養ってもらってる状態の頃は、嫁が椅子に座ってて僕が地べたに座ってご機嫌を伺ってるというカットが何度かあるんだけど、やけに卑屈でめちゃくちゃいい。

そしてこの漫画を読んでると嫁を大事にせんとなぁと思わされる不思議な魅力がある。

あと、福満しげゆきがどれほど天才かってことはここでいくら文章を書き連ねたところでまったく説明できないであろうところが、天才の天才たる所以だと思う。

『僕の小規模な生活』のほかにも、『うちの妻ってどうでしょう?』とか『福満しげゆきのほのぼのゲームエッセイマンガ』とかがあって、こちらも世界観が共通しつついい味を出している。

書いても無駄と知りつつあえてこの人の魅力を書くとするなら、普通ならしょーもな!で終わるようなことをくすりと笑えるしょうもなさに発展させられるところにある気がする。

それから自伝系のマンガも面白いのだが、ストーリーマンガも面白い。

とんでもない超能力を持ってるんだけど、使うたびにちょっとエッチな気分になちゃう女の子の物語なんて、たぶんこの人にしか書けないし、他の誰も着目しないようなところに着目されていて、読んでてすげー面白い。

まあ要は凡人には到底考え付きもしなようなことを平然と描いてのけているのである。

そして最近存在を知った『就職難!!ゾンビ取りガール』がこれまた面白そうなので、いつか必ず読むつもりでいる。
このブログの新たな門出として、最初に紹介したいのは漫画『地獄のアリス』である。

と同時に、創作物と人の暴力性との因果関係を少しだけ考えてみたい。

作者の松本次郎は、僕の知る限り最も暴力的な表現が達者な作者だ。

仇討ち法という、江戸時代の敵討ちがそのまま近代国家にまで引き継がれたような法律が存在する世界を描いた傑作『フリージア』でそのエロスとグロテスクと絶望的なまでの暴力性が恐ろしいまでに見事に描かれていた。

精神を病んだ主人公。精神を病んだ仕事仲間。精神を病んだ上司。

人間の理性が吹っ飛びそうなギリギリのところをどっぷり描くのが本当に上手い。

そんな作者が新たに描き始めたのが『地獄のアリス』という、救いの少ない物語だった。

滅びかけた世界で、セルロイドと呼ばれる愛玩用のアンドロイドと一緒に砂漠の廃墟に立てこもって、

アンドロイドを囮に『悪者』を狙撃して暮らしていた主人公・シュウは、残りわずかとなった人間たちの暮らすコミューンのリーダーと知り合い、狙撃手としてコミューンで暮らすことになる。

というのが大まかなエピソード。

大半が銃弾と暴力とエロスにまみれているこのマンガだけど、とある人がこれを読んで僕の頭を本気で心配してきた。

問題になったのはコミューン内でちょっとした誤解から大規模な戦闘が起こったシーンで、そのどさくさにならず者達が子連れの母親をレイプしており、さっそくシュウによって狙撃されるという場面だったんだ。

その人の言い分としては、レイプシーンがあるような作品を読むということは、どこかにレイプ願望があるのではないか?というもの。

確かに、わからないではない。

こういう疑念が多くの創作物に対する規制と統制の根源となるような感覚だということは間違いない。

もしかしたら殺人ものが好きな人は現実にも殺人を犯すのではないか、あるは殺人が好きなのではないか?というような発想が出てくるわけだ。創作物がそうやって人に悪影響を与えると考える。

人殺しの本をたくさん読んだ人が人を殺したら、それは本のせいだと考える。

本当にそうなのか。

創作物は本当にそうやって悪影響を与えているのだろうか?

そもそも何故、戦闘中にレイプが起こるというシーンが物語に挿入されたのだろうか?

なにかあまりにも邪悪な理由からそういうシーンは挿入されるのだろうか?

よくアメコミなんかには、暴漢に女性が襲われそうになっていて、ヒーローに助けられるなんてシーンがある。

じゃあもし、そこでヒーローが助けにこなかったら女性はどうなっていたのか?と、いうか暴漢は何故、女性に迫っていたのか?

男に女性は狙われる。

戦争中に女はレイプされる。

それは創作物が作り出した架空の設定だろうか?

そうではなく、世の中がそうだから創作物にもリアルが反映されているわけだ。

創作物というのは現実を映し出す鏡のようなものだと言えるかもしれない。その中に流れている倫理や描写はすべて現実に即している。あるいは現実があるからこそ成立する対比になっている。

そして創作物と現実の決定的な違いはそこで必ず誰かが助けに来るところなのだ。

創作物の意義はそこにあると僕は思っているし、そうじゃなくてもやっぱり意義はあると思ってる。

現実には誰にも助けに来ないことだってある、そんなクソみたいな現実を少しだけでもマシにしようという意思が物語の中には反映されているんじゃないだろうか。

だから誰かが助けに来る。

同じように現実にも誰かが助けに現れることを祈るかのように、だ。

物語は祈りだ。と僕は思う。
読んだ本の感想とか、妄想とか、想像とか、

創作物から受けた色んなことを書いていこうかと思っていたり、思っていなかったり。


アバレ
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